今回紹介するのは、ブレイディみかこさんの「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」です。
小説と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、こちらは実話をもとにしたエッセーです。
イギリスで暮らしている作家のブレイディみかこさんが、その暮らしの中で感じた違和感や、日本との違いを丁寧に描かれています。
特に、中学生である息子さんとのやり取りが、このエッセーの根幹をなしています。
私はこの本を読んで、「普通」という言葉に意味なんてないと思いました。
人と違うことを必要以上に気にしてしまう方に、ぜひ読んでいただきたい一冊です。
・同調圧力に悩んでいる
・今いるコミュニティーの関係性で悩んでいる
・ブレイディみかこさんの子供との接し方を知りたい
■混血というマイノリティーな人種の中学生が、何を感じ、どう考えるか

ブレイディみかこさんは日本人、パートナーがアイルランド人であるため、息子さんは日本とアイルランドの混血です。
そして、イギリスに住む中学生です。
そのため、少なからず、アジアの血が入った人として、特異な目で見られます。
また、それはブレイディみかこさん自身もそうです。
どうやら同じ島国でもイギリスでの生活は、日本で生活するより人種差別、社会的格差や階級格差を如実に感じる場面が多いようです。
例えば、イギリスでは公立でも中学ランキングというものが存在し、どこに進学するか自由に選ぶことができます。
しかしながら人気の学校が定員オーバーを起こした際は、学校から自宅までの距離が近い人から順に選出されます。
そうすると中学入学に合わせて人気の中学近辺に引っ越せる人と引っ越せない人がでてくることで、結果的に富裕層と貧困層の棲み分けが起こります。
ほかにも人種差別発言やいじめなど、息子さんは様々な問題(差)に直面します。
そのたびに感じたこと、考え、行動したことが、親子の会話を通して表現されています。
中学生というと、多感な時期であることは言うまでもありません。
そんな息子さんの心と頭の内側を、親であり作家であるブレイディみかこさんが引き出して、読者に教えてくれます。
「ブルー」という単語はどんな感情を意味するか、という質問で、息子は間違った答えを書いてしまったのだ。
「『怒り』と書いたら、思い切り直されちゃった」と夕食時に息子が口にしたので(中略)「ブルーは『悲しみ』、または『気持ちがふさぎ込んでいる』ってことだよ」と教えると
学校の先生にもそう添削されたと言っていた。
これがその宿題だったのか、と思いながら見ていると、ふと、右上の隅に、息子が落書きしているのが目に入った。
黄色のペンで、ノートの端に小さく体をすぼめて息をひそめているような筆跡だった。ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー
胸の奥で何かがことりと音を立てて倒れたような気がした。
(「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」より抜粋)
■イギリスの教育現場の様子

中学生の息子さんと、親である著者の生活に関する内容なので、学校関連や地域生活関連の話がメインです。
その中でいい意味でも、悪い意味でも日本の学校教育との差を感じることができます。
日本の教育は平等であることを正義とし、不平等であることを悪とする風潮が強いように思います。
そしてデリケートな問題(いじめ、家庭問題、貧困、死など)は、なるべく波立てないように、目に触れさせないように学校が、あるいは親が、そういったものを避けるようにして教育を行っているように感じます。
これがイギリスではどうなのか、あらゆる場面で日本(もしくはあなた)との差を感じることができると思います。
私達が普通だと教え込まれたものは、広い世界では全然普通じゃないんです。
どちらが良い、悪いということが言いたいわけではなくて、まずは知ることが大事です。
■ブレイディみかこさんの人間性と、親としての向き合い方

実際にブレイディみかこさんにお会いしたことはありませんし、著作を多く読んでいるわけでもないので、本著を通しての完全なる推測なのですが、物のとらえ方や考え方が素敵です。
どれか一つを選べとか、そのうちのどれを名乗ったかでやたら揉めたりする世の中になってきたのは確かである。
サッカーをプレーしている少年たちにしても
東欧人の血を引いている子や、何代か遡ればインド系の先祖もいる子、アイルランド人の子だっているに違いない。裕福な家の子、そうでもない家の子、両親揃っている子、シングルマザーやシングルファザーの子もいる。
(「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」より抜粋)
分断とは、そのどれか一つを他社の身にまとわせ、自分のほうが上にいるのだと思えるアイデンティティを選んで身にまとうときにおこるものなのかもしれない、と思った。
また、親として子供との向き合い方がなんとも絶妙なのです。
当然ですが、子は親のために存在しているのではなく、自分のために存在し生きています。
だからこそ幸せに、苦労がないように過ごしてほしいと思うわけですが、降りかかる障害をなるべく親が取り除くようなことは、果たして本当に子どものためになるでしょうか。
もし自分が子供と同じ年齢だったとしてそれを望むでしょうか。
壁にぶち当たると予想されても、その選択を尊重してぶち当たらせる。
親の心配をよそ目に、子供は意外と平気で次に進んでいく。
そんな二人の様子が、コミュニケーションの端々にみられます。
読んでいて感心したり、考えさせられたり、思わず笑ってしまったりします。
■私が考える「普通」の意味
どんな人も昔は子供でした。
どんな形であれ、教育というものを受けたことがある人がほとんどでしょう。
そしてまた大人になったひとは、教育をする側の立場になることでしょう。
自分の子供のころに思いをはせると、悩んだこと、もがいていたことが思い出されます。
その多くは、普通であること(あろうとすること)とのギャップで悩むものでした。
私が考える普通の意味は、「今いる関係性で生きる上では、役に立つ事柄」かなと思います。
逆に言えば、関係性を飛び越えた場所では、普通なんてものは役に立たなくなります。
今いる場所での悩みというものは、別の場所ではちっぽけに思えるでしょう。
世界は広いんです。
もし私が親となり教育する立場になったら、自分の中にある普通を押し付けず、子どもの可能性を信じてあまり介入しない子育てをしようと思います。
最期まで読んでいただきありがとうございました。