今回紹介する本は、長田弘さんの詩集から「世界はうつくしいと」です。
余談ですが、もし無人島に本を一冊しか持っていけないとしたら、私はこの詩集を持っていきます。
長田弘さんは福島県福島市生まれの詩人で、最初に刊行された詩集から50年間で18冊の詩集を出されています。
長田弘さんはすでに故人であり、2015年に75歳で亡くなられています。
この「世界はうつくしいと」を、ご本人はこう評されています。
『世界はうつくしいと』は、そう言っていいなら、寛ぎのときのための詩集である。
寛ぎは、試みの安らぎであるとともに、「倫理的な力」をもっている。
「寛ぎとはありとあらゆるヒロイズムを進んで失うこと」(ロラン・バルト)であるからだ。
「世界はうつくしいと」の詩は季節がめぐってくる毎に一つずつ、目の前の風景のなかにひそむ消滅点を一つずつ、じぶんの指で確かめるように書き継がれた。
(長田弘「世界はうつくしいと」あとがきより抜粋)
このように評されています。
そして私も僭越ながら読んで感じたことを書き連ねようとおもいます。
さらには皆さんにも長田弘さんの言葉に触れてもらえるきっかけになればと思います。
長田弘さんの詩はどれも、日々の風景が、日々の移ろいが美しい言葉で描かれています。
思わずうっとりする描き方に心うたれていると、一転、真に迫る提起がなされます。
日々に潜む理(ことわり)を明かし、これはどういうことでしょうか?と尋ねられているようです。
そしてその提起に対する道筋を、優しく、短い言葉でそっと与えてくれます。
あまりに見事な言葉運びに、心うたれていることにも気づかないほどです。
あるいは長田弘さんの言葉に触れていくにつれ、心が満たされていき、この感覚を忘れてはならぬ、逃してはならぬ、とかみしめることに集中せざるを得なくなります。
とても一息で最後までつらつらと読めるものではありません。
美しい言葉に触れたいとき、一息つきたいとき、まさに寛ぎのための詩集といえます。
寝る前に適当なページから読み始め、一編を数回繰り返すような読み方が似合う本です。
ここで一編、ご紹介したいと思います。
「机のまえの時間」
机の話をしよう。
縦九十センチ、横百四十センチ、
厚さ二・五センチの、大きな板一枚。
右と左、二つの脚立に、板をのせ、机にする。
木の香りが残っているが、飾りも、何もない。引き出しもない。
その机のまえで一日一日を過ごし、気づいてふと、
目をあげると、すでに、四半世紀が過ぎている。
そして、何もなかったはずの机の上には
すべてのものが載っている。
(中略)
見えないものが載っている机には、時の埃のように、
語られなかった言葉が転がっている。
たとえば、地に腐ってゆく果物のように、
存在というのは、とても静かなものだと思う。
人は、誰も生きない、このように生きたかったというふうには。
どう生きようと、このように生きた。
誰だろうと、そうとしか言えないのだ。
机の上に、草の花を置く。その花の色に
やがて夕暮れの色がゆっくりとかさなってゆく。
(長田弘「世界はうつくしいと」より抜粋)
長田弘さんの詩集は、プレゼントにも向いていると思います。
よく「読書が趣味」というと「オススメある?」と聞かれますが、どんな人にもお勧めしたいのはまさに、長田弘さんの詩集です。
長田弘さんが亡くなられた2015年には、これまでの全詩集から471編の詩を収めた『長田弘全詩集』(みすず書房)も刊行されています。
ぜひ一度、お手に取って、読んでみてはいかがでしょうか。
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