今日は三島由紀夫の「不道徳教育講座」を処方します。
なんともウィットに富んだ文字運びで、読んでいて本当に面白いです。
こんなふうに言葉を操ることができたらと思うと同時に、そうはなかなか慣れないだろうとも思います。
一つこうしたらなれるんじゃないかと思うことは、単純に読書量かなと思ったり。
ただお粗末な文体を読んでいればいいというわけではなくて、本物の文章を(語彙力)。
魂を揺さぶられる文章にどれだけ触れて、自分の頭で考えて咀嚼できたかによると思います。
まだ20代で人生の酸いも甘いも知っているわけではないからか、とも思ったり。
教師をバカにするのは良いこと
まあそれはさておき、不道徳教育講座の中に、表題に記した「教師を内心バカにすべし」という節があります。
要約すると、
教師は最も身近で、手強くない大人なので、あわれみを持ちなさい、諸君がこれから出会う大人は何万倍も手強いので、偉くなろうと思うと教師ぐらいバカにできることが条件だ
というのです。
なんとまあ三島由紀夫らしい文体だこと、と感心していました。
三島氏の言う通り、必要条件かもしれませんが、十分条件ではないでしょう(使い方あってるかしら)。
つまり、教師を内心馬鹿にしているからと言って偉い人にはなれやしないということです。そりゃそーですよね笑。
善悪の判断がつかない人にならないように
自分の義務教育時代を振り替えると、バカにしていることはなかったと思います。なんとも平凡。
かといって、教師はすごい偉い人だとか、なんでも知っている人、なんてことも思っていませんでした。
記憶に残っている先生は、みな全力で叱ってくれた人達ばかりです。
私が義務教育時代はまだ体罰が黙認されていたギリギリの時代なので、分厚い教科書で頭を叩かれたり、部活でいい加減なことをしたらビンタされたりすることは日常茶飯事でした。
当時は嫌で仕方ありませんでしたが、今考えると、そういう理不尽な状況は心の成長に不可欠なのかなと思います。
なぜなら三島氏のいうように、社会の仕組みは何万倍も理不尽なことが多いからです。
ある程度耐性がついたから(麻痺したから)なんとか社会でもやっていけます。
大事に育てられたりでもしたら、この社会の荒波をどう泳いでいけばいいか分からなかったでしょう。
要は、理不尽な圧がかかった状況は、善悪の判断を養ういい機会なんだと思います。
あの時の理不尽は、心の羅針盤のような役割を果たしたのかもしれません。
- 耳に痛いことを言ってくれる人こそ大事にしなさい。
- 若い時の苦労は買ってでもしなさい
色々文言はあるだろうけど、そのどれも本質でしょう。
なので三島氏の言葉に対して付け加えるならこうです。
「教師を内心バカにすべし、バカにされた教師は世の理不尽を説くべし」
やり方はお任せします。責任はとれません。
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