今回はドイツの哲学者、ショーペンハウアーの著書「読書について」をご紹介します。
まず結論を述べると、ショーペンハウアーは多読を批判しています。
私自身、本をたくさん読むほどに、教養を得、心が豊かになるものだと思っていました。
しかしながらショーペンハウアーはそうではないといいます。
なぜなのでしょうか?
この記事ではショーペンハウアーが多読を批判する理由を、著書「読書について」をもとに紐解いていきます。
・読書が趣味な方
・読書を習慣づけることに挫折したことがある方
・読書はインプットと同じくらいアウトプットが大事だと考えている方
ショーペンハウアーについて

アルトゥール・ショーペンハウアー(1788-1860)はドイツ生まれの哲学者です。
父は銀行業務などを手掛ける富裕な商人で、母は小説家であり、二人の間に長男として生まれました。
ゲッティンゲン大学で自然科学・歴史・哲学を学び、プラトンとカント、インド哲学を研究します。
1820年にベルリン大学講師となりましたが、当時ドイツを席巻していたヘーゲル教授に圧倒され辞任し、在野の学者となります。
主著である「意志と表象としての世界」を敷衍したエッセイ「余録と補遺」がベストセラーになると彼の思想全体も一躍注目を集め、晩年になってから名声を博しました。
ニーチェやヴァーグナーをはじめ、哲学・文学・芸術の分野で後世に大きな影響を及ぼしました。
多読に走るな、考えろ!

ショーペンハウアーはあらゆる言い方で本をたくさん読むことを批判しています。
ショーペンハウアーが述べている批判を一言でいうと、
「本を読むことは、他人の頭で物を考えることだ。」
ということです。
当然ですが、本は書いた人がいて、基本的にはその人の主観に基づいて書かれています。
そうすると「読書をたくさん行う」=「他人の考えを多くインストールする」ということになります。
たえず本を読んでいると、他人の考えがどんどんと頭の中に流れ込んできます。
他人の考えがたくさんインストールされた頭では、自発的に正しく物事を考える、判断することができるでしょうか。
おそらく自分の頭で考えているつもりでも、無意識のうちに本の内容(他人の考え)に影響を受けるはずです。
ショーペンハウアーはこうした状態を、神聖なる精神への冒瀆に等しいとし、「広々とした大自然から逃げ出して、植物標本に見入ったり、銅版画の美しい風景をながめたりする人に似ている。」と、揶揄しています。
そうして、自分の頭で考察してたどり着いた考えにこそ、価値があるのだと論じています。
ともすれば、自分で考えてたどり着いた真理が、とある本に、より完璧な形で載っていた、こんな経験はないでしょうか。
もしそういったことがあったとしても、自分の頭で見出した真理や洞察は、自分の思考体系に組み込まれ、それが消えることはありません。
では、読書をすることすべてが悪いというのか?
けっしてそういうことではありません。その点については次でご紹介します。
☑読むべき本と、読むべきでない本

この世に出版された本には、二つのタイプが存在します。
- A:テーマがあって書かれたもの
- B:書くために書かれたもの
Aのタイプには思想や経験、テーマがあり、伝えるに値するものがあります。
一方でBはお金のために書かれたものです。
お金のために書く。書くために考える。
こういった本に出合ったなら、直ちに投げ捨てましょう。
もうお分かりだと思いますが、Aが良書で、Bは悪書です。
書き手がお金のために、余白を埋めるために書かれた本には何の価値もありません。
時間は貴重です。大事にしましょう。
どうしてこのように悪書が世の中に存在するのか。
その答えは、文章を書くことが収入を得る方法のひとつになってしまったからです。
元来、書くという作業は書きたいテーマがある人だけが行っており、そのほとんどは無報酬か、あってもわずかでした。
著作権保護や複製禁止などの制約はなく、書かれたテーマが受け入れられた暁にはおのずと世に広まり、認知されていきました。
しかし現代の、書くことで報酬が生まれるということになると、話は違ってきます。
- ページ数を稼ぐために、見せかけの文章を書く
- あいまいな表現を多用して明快さを欠く
良書と悪書が存在するすべての元凶は、本を書くことでお金を稼げるようになったことです。
読書好きの立場からすると何とも悲しい話ですが、確かなことでしょう。
頻繁に本を出している作家さんがいらっしゃいますが、そのなかで本当に伝えたいテーマがすべてに含まれているでしょうか。
ショーペンハウアーは本を読むことについて
悪書から被るものはどんなに少なくとも、少なすぎることはなく、良書はどんなに頻繁に読んでも、読みすぎることはない。
(「読書について」ショーペンハウアー より抜粋)
悪書は知性を毒し、精神を損なう。
良書を読むための条件は、悪書を読まないことだ。
と述べています。
また、ここで触れられた良書の読み方についても、興味深いのです。
ショーペンハウアーは多読をすることは否定していますが、良書を繰り返し読むことは、ぜひそうしろと勧めています。
二度目になると内容のつながりがよくわかり、結末がわかっていれば出だしを一層正しく理解できるからです。
読後に感じたこと
これまで私は、なるべくたくさんの本を読もうとしていました。
新年を迎えた際には、「今年は100冊以上読もう!」と、ノルマを設定していたりしました。
しかしその一方で、すごく大事なことを言っているのだけれども、一度では理解しきれず何度も読んだ本も数多く存在します。
そのような良書に出会ったときは、稲妻に打たれたような衝撃が走り、その本と出合えたことがうれしく、読む手が止まらなくなる感覚はありました。
そういった本でも、しばらくぶりに背表紙を見ると内容が思い出せなかったりします。
あるいは、本屋で面白そうだと思って買った本が、読む勧めていくうちにそうではなくなり、ただ途中で辞めるのももったいないと思い、だらだらと最後まで読んでしまう、こんな読書の仕方も頻繁に行っていました。
そういった読書姿勢を、びしっと正されたような気分になりました。
また、ブログとはいえ発信するものとして、書くために書くのではなく、テーマをもって書こうと思います。
真の良書は、何度読んでも飽きることはなく、読むほどに色彩を帯びていきます。
いたずらに本の虫と化すのではなく、考える葦であろうと強く思いました。
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